ロストドリーム・ジェネレーションズとして生きるということ 〜 ヴォヤージュ1969と少女終末旅行
(取り戻した感情がこれで人生大丈夫か)少女終末旅行が人生の美の極致として存在するので、なんかもう最高の人生はそれで良いだろという感じがあり、自分が幸せな人生を送らねばという焦燥がない
— はまとく⛄Mcity (@hamatoku205) 2019年12月2日
今まで東方以外に長く追ってきたコンテンツがほとんどない自分が、なぜ少女終末旅行にはハマったのか。
その理由を自分なりに解釈すると、双方の世界観に時代性を反映した独特の部分があり、それらに対して心の深層で同時代的な共感を覚えたのだと思う。
東方、特に神主ZUN氏が音楽や文章を通して紡ぎ出す幻想郷・秘封倶楽部の世界観が好物の人なら、結構な確率で終末沼にもハマってくれるのではないか。
そういう期待を込めて、この記事では上記の「時代性」をもう少し掘り下げてみようと思う。
ヴォヤージュ1969
二十世紀の旅人。
二十世紀のノアの箱舟は、期待と不安を乗せて宙を飛んだ。
だが、期待だけを月に置き忘れてきてしまったのだろうか。
未来と言われていた二十一世紀には、不安とほんの少しの幻想だけしか残されていなかった。
(東方永夜抄MusicRoom「ヴォヤージュ1969」より)
神主がこれまで書いてきた曲コメントの数は幾百にも及ぶが、上記「ヴォヤージュ1969」のコメントはもっとも詩的なものの一つだ。
1969年に宙を飛んだ「ノアの箱舟」とは、もちろん、人類初の月面着陸を果たしたアポロ11号のこと。
6面道中というラスボス手前のタイミングで流れるこの曲はいかにも永夜抄的な鮮烈さを有しており、人間離れしたピアノの旋律が描き出す過去の人類の「期待」は、静穏で緩慢な絶望の中に取り残された我々の世界とは残酷なまでに対照的である。
「失われた30年*1」とも言われる現代社会に対する緩やかな諦念は、東方Projectの世界観に通底していると個人的に思うが、それが最もよく発露されているのがこの曲コメントではなかろうか。
ロストドリーム・ジェネレーションズ
私がこの曲コメントの味わい深さを再認識するきっかけとなったのが、凋叶棕(ティアオイエツォン)による「ロストドリーム・ジェネレーションズ」という曲だ。
凋叶棕 - 徒
(リンク先で「ロストドリーム・ジェネレーションズ」のショートVer.が聴けます)
この曲は「ヴォヤージュ1969」の二次創作であるが、メロディーのアレンジに留まらず、上記の神主による曲コメントまでもがアレンジされて歌詞になっているという異色の作品である*2。
―どうして、
置き忘れてしまったんだ。
二十世紀の旅人は、
確かに抱えていたのに。―或いは、
そんなものは、最初から、
偽りの幻でしか、無かったのか?そうしてぼくらに、残されたのは、
かわりにぼくらが、抱えているのは、
不安とほんの少しの幻想だけなんだ。
(徒「ロストドリーム・ジェネレーションズ」より)
上記の歌詞が流れるサビの部分でボーカルの音程が常軌を逸した高さになり、高音に強いVocalのめらみぽっぷさんを叫「ばせ」ているのがとても印象的だ*3。
すなわちこの歌詞はまさに、失われた時代を生きる我々、ロストドリーム・ジェネレーションズの魂の叫びとして書かれているのだろう。
そしてこの叫びは、先に挙げた「現代社会に対する緩やかな諦念」を抱えた我々の、ささやかな悪足掻き、あるいは幻想なのである。
少女終末旅行
ここまで東方の話をしてきたが、話題を大きく転換して少女終末旅行の紹介に移ろう。
少女終末旅行は、2014年から2018年まで連載された漫画作品。2017年にTVアニメ化もされた。2019年には、優れたSF作品に贈られる「星雲賞」のコミック部門を受賞している。
TVアニメ公式HPからあらすじを引用する。
繁栄と栄華を極めた人間たちの文明が崩壊してから長い年月が過ぎた。
生き物のほとんどが死に絶え、全てが終わってしまった世界。
残されたのは廃墟となった巨大都市と朽ち果てた機械だけ。
いつ世界は終わってしまったのか、なぜ世界は終わってしまったのか、
そんなことを疑問にさえ思わなくなった終わりの世界で、
ふたりぼっちになってしまった少女、チトとユーリ。
ふたりは今日も延々と続く廃墟の中を、
愛車ケッテンクラートに乗って、あてもなく彷徨う。全てが終わりを迎えた世界を舞台に、
ふたりの少女が旅をする終末ファンタジーが今、幕を開ける。
はじめてこの作品に触れる人にはTVアニメがとっつきやすいのではないかと思う。軽妙な会話劇の再現度も劇伴音楽もともに素晴らしく、耳と目で鑑賞する総合芸術としてのクオリティが高い。原作者描き下ろしのEDアニメーションは永遠にループ再生させる魔力がある。
もっとも、原作漫画にしか表現し得ない画風やコマ割りの妙があり、なにより「終末」は原作でしか見られないので、最終的には両方の媒体で鑑賞してみてほしい。
そんな少女終末旅行が反映している時代性について。
将来への不安どころか「終末」という極限の状態に至っている作品であり、一見して時代性とは関係ないようにも思える。しかし、その世界観はやはり時代性の反映があると私は感じる。
絶望が支配する世界で、2人は少しでも長く生きようと燃料や食料をかき集める。ケッテンクラートを動かして世界の隅々まで探索する。
この先に食料があるか、燃料を補給できるところはあるのか、保証してくれる人は誰も居ない。
それでも理性を保ち、先の見えない階層都市を進み続ける。その意味さえわからない生の継続のために――
こうして見ると、失われた時代を覆っている静穏で緩慢な絶望は、終末世界のそれとどこか似ている。
作中、チトとユーリは世界を探索する中で、世界に漂うさまざまな「絶望」と出会っていく。
2人はそれに打ちひしがれると言うより、「絶望となかよく」なり、終末世界とうまく付き合っていこうとする。
自分たちがいかなる行動をしても世界の「終末」という結末は変わらない。ならば、絶望となかよくなろう――
「絶望となかよく」は、作品のメインテーマであると同時に、現代を生きる我々に向けた一種の処方箋の提案ではないだろうか。
原作は最終巻に入ると、生きることと死ぬこと、その本質についての問いを一層加速させていく。
死生観とはすなわち、人生観である。何のために生き、何のために死ぬのか。
そして、チトとユーリ、2人ぼっちのVoyageの終着点で、ついに辿り着いた「答え」。
それこそが、ロストドリーム・ジェネレーションズとして生きる我々にとっての「答え」でもあり、「ほんの少しの幻想」の真髄なのではないか。
最終巻を読了した時、魂が救済されたような気がして、それから数日間は呆然としてしまったことをよく覚えている。
気づけば少女終末旅行の沼に肩までしっかり浸かってしまっており、寝ても起きても頭から離れない。何なら頭蓋骨こじ開けて脳まで浸していたい。こんな危険なハマり方をしたコンテンツは久方ぶりで自分でも困惑している
— はまとく@4日目西2お12a (@hamatoku205) 2019年8月30日
↑魂が救済された人
ここまで読んで関心を抱いた人は、ぜひ2人の「答え」を自分の目で確かめてみてほしい(ファ○通の攻略本風)。
そして、あなたが抱いた感想を私に教えてください。
おわりに
この記事では、東方と少女終末旅行の世界観に共通する「時代性」の反映について説明を試みてきた。
拙文が少しでもこれらの作品に対する興味を惹起することができれば幸いである。
あ、「月光」はぜひ原作で読んでくださいね*4。
※この記事はGUTアドベントカレンダー2019のくらばく(12/11)担当分でした。